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2008年06月 アーカイブ

2008年06月01日

ねじ

昨晩20:00過ぎに息を引き取りました。6歳2ヶ月。勝手に決めていた誕生日は4/1だったので、3ヶ月目には1日足りなかった。

つききりではなかったのですが、最期には立ち会えました。最後の最後までも少し時間はあるとヒトはたかをくくったままでした。ふっといなくなってしまった。あんなにがんばっていたのに、そのときは本当に本当にあっけなかった。

ヒト月くらい引きこもって何にもせずに泣いていたい所ですが、今日から事務的なことを淡々と済ませていこうと思っています。薄情なヒトで本当にごめんな。でも、残されたトリたちが、まあ朝になったらとりあえず羽づくろいしてご飯を食べるもんだぜと教えてくれています。

ねじの病気、特に一昨日からの経緯は、ヒトがもう少し落ち着いてから書かせていただこうと思っています。みなさん読んでくれてありがとう。

2008年06月07日

ねじのいない日

1週間経ちつつある。ヒトは、もう年の功だろうね、その気になれば気持ちが流れる管のバルブをぎゅうと閉じてある程度は過ごすことができる。今週はそうやって何かを堰きとめて平日を送ってきた。たぶん職場ではふだんよりへらへらしていたくらいだ。そのかわり、帰ったらトリを慰めるという建前のもとにトリに慰めてもらっていた。そんな毎日。

ねじの死の前日はmixiの方にだいぶ記録をつけていた。当日のメモはまだ私のPCの中にある。写真も撮っている。これらを整理したいとは思っているのだけれど、この2日間の対応がねじの寿命を縮めたという気持ちがどうしても立ちふさがって、今はまだ気力がついていかない。保留にさせてほしい。

代わりに、ねじがいなくなった後の話を少し。

6月1日、ねじを荼毘に付した。息を引き取ってからまる1日手元に置かなかったことになり、決めてからも済ませた後も自分が冷酷なヒトであるという気持ちがぬぐえないでいる。とは言え、ねじのなきがらのもとにはもうねじはいなかったし、長いこと手元に残してねじのかたちをヒトがヒトを責める材料にするのはかえってねじを粗末にするように思えた。

その日は久しぶりに晴れた明るい1日だった。翌日は友引で火葬場はお休みのはずだった。それでやっぱりねじと一緒に電車に乗って出かけることにして、途中何度も「今日の空はさじ色」と考えたことを覚えている。つい昨日になって知ったのだけれど、この6月1日はヒトやねじが生まれるずっと前から「ねじの日」だったらしいよ。だからまあ結局これで良かったのじゃないかとヒトは思っている。

それから、ちょうどねじの不調に気づいた頃に申し込んでいたネジTが昨日着いた。

ねじT

ねじT

すんばらしいではないか。足りないものなど何ひとつないではないか。この夏はこれを着てどこかに遊びに行こうと思う。このタイミングでこのTシャツを販売してくれたバドンさん、本当にありがとう。まことに勝手ながら運命を感じている。ラヴアンドぴよ。

他のトリはと言うと。

やっぱり気になるのはひとり住まいになったさじだけれど、わりにドライなタチのセキセイという生きもの、そしてもともとのさじ自身の性格もあって、どすんと落ち込んでしまっている様子はない。それでももちろんやっぱりさみしいのだ。朝晩はさみしいヒトに良くつきあってくれて、顔をかけかけと迫ってくる。隣のケージで粟穂をかじる気配がするとさじもぱりぱりと粟穂をかじり、隣で羽づくろいが始まると思い出したようにさじも羽づくろいを始める。しんけーしつになっているヒトに毎日お腹をなでられて迷惑そうな顔をして、そして相変わらず青菜を踏みしだいては水浴びに勤しむ。ああ、みんながいてくれて本当によかったとヒトは思う。

さじ

さじ


ミドリびよたちは換羽でぼさぼさだ。それでもギイはこぎれいで、メエはやっぱりとげとげぼこぼこが激しいのはどうしてだ。加減が分かってきたのか、放鳥中さじさんを追いつめすぎなくなってきた。この調子で頼むぞ。

ギイ

メエ


ねじの闘病中は、出先でつらくなるとずっとたまの曲を聴いていた。特に「ハダシの足音」は病気のトリを見ているヒトの歌としかもう思えない。今年の連休にこの人たちが解散後初めて一緒に舞台にのぼる機会があって、ヒトは千倉というところまで出かけたのだった。演奏を聴いてソロのCDを1枚買って、握手をしてもらったその手が意外なほど温かかった。それから都内でのソロライブにも行ったな。ありがとう滝本さん。この曲を後でまたこんなに聴き返すことになろうとは思いませんでした。それからこの2曲にも助けられている。

mixiでのトリの友達たちには思いもかけない贈りものをいただいた。この1週間、いろんなところでねじの顔を見ることができた。本当に本当にありがとう。

ヒトはきっと大丈夫。そしてだんだんもっと大丈夫になっていくはず。でも世界よ信じられますか。あんなちびっちょがもういないだけで、ヒトがこんなにかなしいなんて。

ねじ20070818
(ねじ:2007/8/18)

2008年06月11日

ねじのいない日2

さじ

今週はいろいろつけがたまっていて、帰りの遅くなる日が続いている。家に戻ってきたときにはだいぶ疲れて気持ちも弱っていて、紫の花を投げ込んだ花瓶の前にぺたりと座ってしばししくしくと泣く水曜日。騒ぎに起き出してきたさじさんに顔を寄せてみたら、不意にすうすうとヒトの眉間に涼しい風が吹いた。そうだった。さじさんは我が家で一番鼻息があらいのだ。すうすうすうすう。

あの日、ケージの中のさじに会わせようとねじを連れてきたとき。感動のご対面になるはずが大真面目な顔をしたさじさんの鼻には実に立派な綿羽がひっついていて、ふわりふわりと鼻息に揺れていた。そう、それはねじの最後の日のことだ。さじさん、ここもあそこも笑わせる場面じゃないのに。

ありがとう。

一昨日のことだったか、デジタルカメラで撮ったトリの動画を見返していたら、さじは聞こえてきたオスインコのさえずりにかわいそうになるくらい喜んだ。カメラのまわりをぐるぐるぐるぐる駆けまわり、しまいには上に飛び乗ってぴよぴよぴよぴよのどを鳴らして呼び返す。うれしそう。幸せそう。でもさじさん、本当言うと再生してるのは君の動画で、聞こえているのは君のさえずりだったんだ。

ごめんな。

2008年06月19日

ねじのいない日3

病気のことが分かってからねじがこの世で暮らした日数より、ねじがいなくなったその後の日々の方がもう長くなってしまった。驚くべきスピード、驚くべき希薄さで時間は流れていく。

職場は職場、ウチはウチ、で気分を切り替えてヒトはずっとやってきたはずだった。もともとヒトはあそこでは象が踏んでもこわれないくらいに思われている。家では時々まだ泣くけれどそれはそれだけのことだと思っていた。というわけで、昨日はつい魔が差したのだろう、遅い時間にひとりでぼんやりと働いていて、ふとねじの最後の日の動画を見てみることにしたのだ。

粟の穂をかじるトリを上から見下ろしている。その前日から調子がうんと悪くなって、それはヒトが気をつけてやれなかったせいだった。寝て起きてを繰り返し、意識が戻ったらそれでも食べよう食べようとしていて、それは本当にもう危機的な状態になっていたからで。この後結局半日しかトリは生きられなかった。ヒトはトリのためにもう何もできやしない。そこまでするする考えてしまったら、前触れもなくぱたぱたと軽い音を立てて手元に涙が落ちてきた。

ああやってしまったね。やっぱり平気になぞなっていなくてそれは当たり前のことだった。広げてしまった風呂敷の角をあわてて夢中で寄せ集めて引っくくって、さあここから今は逃げていこう。こんなときには、そうこんなときこそ、鼻歌を。

 夏の夜空を見上げれば
 北斗の七つ星
 ぐるぐる渦巻いてこぼれちゃう
 ひかりのしずく

帰って玄関を開けたら花のにおいがした。見ると、今朝はまだとがったつぼみだらけだったフロックスが景気よく咲いている。しげしげとながめていたら花のつけねはうす赤色で、つぼみが頭の筆毛に見えてきた。開いた白の花は、亡くなる前のトリのふさふさした後ろのつむじによく似ている。いくつものいくつものいくつもの白いつむじだ。一昨日店頭にめぼしい青の花がなくてまあいいかと買ってきたにしては、上出来のお花ではありますまいか。

 ハァおばけちゃん
 ゆうれいさん
 ちょいと帰ってきてちょうだい
 どこかで息をひそめてる
 みんなもついでに
 ほーい、ほーい 出ておいで

ねじがいなくなった後、ヒトは花を飾って、毎朝そこに粒餌と粟の穂と青菜と水を供えている。われながららしからぬことをやっている、という自覚はあるが、気持ちの行き場を一箇所にまとめておいて何かすることの手順を決めておくと、確かに落ち着く部分がこのヒトにもあるのだった。それでお墓や何やの効用についていまさらながら感心したりもすることがあって、この歳でそんな自分はやはり人間としていかがなものかと思わぬでもないけれど、それはまた別のお話。

 かえる みみず おけら もぐら
 ねずみ むかで とかげ げじげじ

げじげじと一緒にしたって、まあねじは怒るまいよ。

フロックス

 ちょいとしゃがんでのぞいて見た
 お花のまん中に
 ちょこんとしゃがんで見えるのは
 オヤわたしの背中

「ひとだま音頭」知久寿暁

2008年06月21日

ねじのいない日4

小さな庭に向かう二十畳ほどの座敷の隅に座って、ヒトはぼんやりしていた。こじんまりした庭木には人の手がきちんと入っていて緑の色が濃い。夏のような強い日差しが箒の目の通った砂の上に落ちているけれど、開け放した戸から入ってくる風はいい具合にまだ涼しい。空の色はだんだん薄くなっていく。まあ悪くはあるまい。もう何度目か分からなくなってるけれど、そんなことをまた考える。

と。

濡れ縁から落ち着いた足取りでのっそりと座敷にあがってきたのは、大きなシマの猫だった。その口元からは、何ということだ、茶色いすずめのつばさが半分のぞいているのが一瞬で見て取れた。一度直視してしまって、もう二度と見返さないことにする。

座敷にはほかにも何人か座っていたのだけれど、トリ飼いはほかにはいなかったようだ。猫は人の間をぐるぐるとまわる。きゃあと誰かが言って「見せに来たんだ」とまた誰かが言って、まあ猫のやることだからしかたあるまいねとみんなが思っている。ヒトはあまりの間の悪さに動揺して、ここは憤慨すべきところかどうかしばし真剣に考えた。

でも、あんまりだけどこんなものだよ。

バランスを取るために行きずりの猫を憎むこともできたけれど、そんな気持ちにはならなかった。分類不能な状況や感情に面したときに、「おもしろい目にあっている」というタグをつける習わしはいったいいつから身についたのだろうね。あれもひとつの、これもひとつの命だ。

そこで名前を呼ばれてヒトは立ち上がったので、その後猫とすずめがどうしたのかは分からない。「火事場の馬鹿力で生き返らないかと思う」というそれそのまんまの歌(たま「牛乳」)が脳裏に流れるのではないかと少し前から恐れていたのだが、結局そんなことは忘れていた。

そう、晴れて暑いくらいの午後だった。あの翌日の話である。

2008年06月28日

ねじのいない日5

さじ

最近さじさんは、大事な趣味である紐かじりの時間を削ってまで、全身全霊をあげてヒトにお説教してくれている。曰く「群れはいっしょにいないとだめなんだ」。

ヒトの気配をちらりとでも感じると、さじさんはケージの定位置=左手前角までよじ登っていく。そして、両足をじたばたさせてステンレスの網目に頭のぼさぼさを限界までめりこませてから、くちばしでケージの縦棒をくわえて頭を上下させ始める。ケージの扉を開けろ、という若ドリ時代からのジェスチャーだ。放っておくとかしゃかしゃかしゃかしゃいつまでも音を立てている。

相手をできないときにはヒトはケージ越しの顔かきでお茶を濁そうとするのだけれど、時間の許す限りごしごしかいてやってもさじさんは決して満足しない。そしてこころを鬼にして知らんぷりしてみると、かしゃかしゃはエンドレスで続くのだ。ヒトがいない間もこんな具合だったらどうしようとそっと物陰に隠れて観察してみたら、ヒトが視界からはずれているときはお休みして、現れるとまたはっとして再開した。どうも、さじさんからは見えるのにヒトがあっちにいるというのが一番けしからんようだ。

こんなときはケージの扉を開けてやるとそれで気が済むらしく、ヒトがあっちに行こうがもう構わずにのんびり羽づくろいなどに励みだす。傍に行く気になれば好きに行ける状態ならいいのだ。ときどき呼びかけて、お互いの居場所が分かればいいのだ。とは言うものの、休日と言えど一日さじさんと一緒にいるわけにもいかないので、今日などはヒトは自宅で息をひそめて過ごす羽目になった。隣にミドリたちもいるだろうによう、と思わないでもないけれど、やっぱりそれは別の話なのだ(恐怖のメエギイと同じケージに入ってもらったら、それはそれでやっかいなことになる)。

やっぱりさみしいよな、さじさん。ほんとごめんな。


さじ

今週ヒトは仕事の帰り際から夜半にかけてひどい気分になる日が多かった。自分でもあんまりだと思って、ある日などはそれを逆手にとっていつまでもいつまでも職場にいてみたら、いろいろな余裕を使い果たしてぐるりと一周してしまったのか今度は妙にテンションがあがったのだけれど、そんなことを毎日やっているわけにもいかない。朝が来るとそれなりの時間に目を覚まして出かける気がわいてくるのがまだ救いで、このサイクルが途切れてしまったらどうしようとめずらしく不安になった。

写真でさじが踏みしめているのは、缶に入った大きなカステラである。ついに元気が出ない朝が来たらこの缶をぱかりと開けよう。それから平行にきれいにナイフを入れて、端っこからいやになるまでカステラをどんどん食べよう。そうして胸いっぱいにカステラがつまったら、歯をみがいてからヒトは仕事に出かけるのだ。勝手に追い詰められて何だか妙な対策を編み出したものだと自分でも思うのだが(実を言うとヒトの考えることはふだんからよく分からない方向へ逸れてばかりいる)、カステラを買ったときのヒトは本気も本気だった。その後出番まではねじに預けておこうとお供えしておいたら、昨日さじさんに見つかってしまったよ。「群れ」の中で隠しごとはできないね。

昨夜はそんなことやってる場合かとか何とかいろいろ迷うところもあったのだけれど、結局えいやっと職場から離脱して不思議な六月の夜に行ってきた。別に何かを我慢してたという意識はないものの5月半ばからこっち遊びに出かけることはなかったし、それどころじゃないのにヒトはもう何やってるのかなあという考えがずっと消えなかったけれど、青いライトがともるたびにトリのことも思い出したけれど、でもやっぱり楽しくてね。それから思いもかけず生の「ひとだま音頭」が聴けて、それがまたすんごく良くてね。ライブハウスってみんなおんなじ方を向いてるからいいよね。やっぱりヒトは泣きましたよ。

疲れて帰ってそのまま寝てしまって、休日の今朝ヒトはだいぶ寝坊した。起きてコーヒーを淹れていたら新しい豆がやけにふくらんで、トリたちは相変わらずぴよぴよと鳴いてさじさんはかしゃかしゃやっていて、そしたらだんだんまあいいやと思えてきたので、缶を開けてむっつりとしたままカステラをたくさん食べて、ヒトはも一度寝直すことにした。昨日4時間突っ立ってられたくらいなんだから、大丈夫でないことはあるまいよ。ねじのいない6月はまあこんな具合に過ぎていきます。

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