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ねじのいない日

1週間経ちつつある。ヒトは、もう年の功だろうね、その気になれば気持ちが流れる管のバルブをぎゅうと閉じてある程度は過ごすことができる。今週はそうやって何かを堰きとめて平日を送ってきた。たぶん職場ではふだんよりへらへらしていたくらいだ。そのかわり、帰ったらトリを慰めるという建前のもとにトリに慰めてもらっていた。そんな毎日。

ねじの死の前日はmixiの方にだいぶ記録をつけていた。当日のメモはまだ私のPCの中にある。写真も撮っている。これらを整理したいとは思っているのだけれど、この2日間の対応がねじの寿命を縮めたという気持ちがどうしても立ちふさがって、今はまだ気力がついていかない。保留にさせてほしい。

代わりに、ねじがいなくなった後の話を少し。

6月1日、ねじを荼毘に付した。息を引き取ってからまる1日手元に置かなかったことになり、決めてからも済ませた後も自分が冷酷なヒトであるという気持ちがぬぐえないでいる。とは言え、ねじのなきがらのもとにはもうねじはいなかったし、長いこと手元に残してねじのかたちをヒトがヒトを責める材料にするのはかえってねじを粗末にするように思えた。

その日は久しぶりに晴れた明るい1日だった。翌日は友引で火葬場はお休みのはずだった。それでやっぱりねじと一緒に電車に乗って出かけることにして、途中何度も「今日の空はさじ色」と考えたことを覚えている。つい昨日になって知ったのだけれど、この6月1日はヒトやねじが生まれるずっと前から「ねじの日」だったらしいよ。だからまあ結局これで良かったのじゃないかとヒトは思っている。

それから、ちょうどねじの不調に気づいた頃に申し込んでいたネジTが昨日着いた。

ねじT

ねじT

すんばらしいではないか。足りないものなど何ひとつないではないか。この夏はこれを着てどこかに遊びに行こうと思う。このタイミングでこのTシャツを販売してくれたバドンさん、本当にありがとう。まことに勝手ながら運命を感じている。ラヴアンドぴよ。

他のトリはと言うと。

やっぱり気になるのはひとり住まいになったさじだけれど、わりにドライなタチのセキセイという生きもの、そしてもともとのさじ自身の性格もあって、どすんと落ち込んでしまっている様子はない。それでももちろんやっぱりさみしいのだ。朝晩はさみしいヒトに良くつきあってくれて、顔をかけかけと迫ってくる。隣のケージで粟穂をかじる気配がするとさじもぱりぱりと粟穂をかじり、隣で羽づくろいが始まると思い出したようにさじも羽づくろいを始める。しんけーしつになっているヒトに毎日お腹をなでられて迷惑そうな顔をして、そして相変わらず青菜を踏みしだいては水浴びに勤しむ。ああ、みんながいてくれて本当によかったとヒトは思う。

さじ

さじ


ミドリびよたちは換羽でぼさぼさだ。それでもギイはこぎれいで、メエはやっぱりとげとげぼこぼこが激しいのはどうしてだ。加減が分かってきたのか、放鳥中さじさんを追いつめすぎなくなってきた。この調子で頼むぞ。

ギイ

メエ


ねじの闘病中は、出先でつらくなるとずっとたまの曲を聴いていた。特に「ハダシの足音」は病気のトリを見ているヒトの歌としかもう思えない。今年の連休にこの人たちが解散後初めて一緒に舞台にのぼる機会があって、ヒトは千倉というところまで出かけたのだった。演奏を聴いてソロのCDを1枚買って、握手をしてもらったその手が意外なほど温かかった。それから都内でのソロライブにも行ったな。ありがとう滝本さん。この曲を後でまたこんなに聴き返すことになろうとは思いませんでした。それからこの2曲にも助けられている。

mixiでのトリの友達たちには思いもかけない贈りものをいただいた。この1週間、いろんなところでねじの顔を見ることができた。本当に本当にありがとう。

ヒトはきっと大丈夫。そしてだんだんもっと大丈夫になっていくはず。でも世界よ信じられますか。あんなちびっちょがもういないだけで、ヒトがこんなにかなしいなんて。

ねじ20070818
(ねじ:2007/8/18)

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2008年06月07日 12:56に投稿されたエントリーのページです。

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