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2007年01月 アーカイブ

2007年01月02日

至近距離ひとりじめ

さじ
ねじ

あけましておめでとう。

トリたちのどんな様子をヒトはいちばんかわいらしく感じるのだろう、などと考えている暇な新年だ。結局「ヒトの眉間から3cmの距離で見たときのすべて」に尽きるのでは、と思う。

程度の差はあれ、うちのトリはみんなヒト顔が好きで、顔がどんどん寄っていっても気にしないどころか実にうれしそうに出迎えてくれる。眉間から3cmではいくらヒトがひどい近視でもまったくピントが合わないのだけれど、トリたちがこちらを向いてとても楽しそうにしているのは良く分かる。このときの表情はカメラのレンズ越しでは再現されないはずで、これを見られるのは飼い主だけの役得であるとヒトはかたくかたく信じている。

難点をあげるなら、ヒトは数分以上寄り目にしているとものすごく気分が悪くなる生き物であって、いくらトリを愛していても肉体的な限界に打ち勝つことはたいそう難しい、ということくらいだろうか。

2007年01月06日

黄色い休日

ギイ

ギイ
「この歳になっても訳もなく泣きたくなることはあるのだ、とヒトは言う。
どうもこのところ繰り返し聴いてる歌のせいで、いろいろ黄色く見えるらしい。

草も空も配水管も、ヒトの未来も黄色なんだ。

『ああ今朝はトリまで黄色い...』って、でもギイが黄色くなくてどうするよ?」

*BGM : Inside Out (The Traveling Wilburys)

2007年01月14日

終わりよければ

ギイ

同窓会で再会した憧れのマドンナの20年後みたいなギイ。
いや、ぶるっとする寸前の写真ですよ。念のため。
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遅く帰ってくるとどうしてもトリたちを起こしてしまう。警戒心の薄い我が家のトリたちはドアの開く音に反応してもうぴよぴよつぶやき始める。どうせ起きたならと廊下の明かり越しに暗いケージの中を覗くのがヒトの日課なのだが、その日はどうしたはずみか、ギイの乗ったブランコが左右に大きく振れていた。

ブランコがぶんぶんゆれる。ギイの身体もゆれている。でも、どうしたことか。ぽよんと膨らんだその顔は、何かで上から固定したかのようにほとんど動いていないのだった。まっすぐ向いた愛らしい顔の下では身体が忙しくバランスをとっている。何という身体能力だろうと感心する前に、ギイの生真面目な表情にヒトは思わずぶふっと吹き出した。

トリと一緒に暮らしていると、その日を「良い一日だった」とまとめることは容易いなあとつくづく思うのだ。

2007年01月21日

愛はたやすくむずかしく

ねじ

ペットを愛するもののはしくれとしてヒトは修養を重ねてきたつもりではあるけれど、刹那刹那にはトリに本当に腹を立てることもある。そんなときまず考えるようにするのは、「でもうちにいるのが、陰気で湿っぽくてずるずる粘液ひきずって移動するような習性で、血が青くて冷たくて腐臭がして光が嫌いでおまけに『キシャー』とか『シュコー』とか鳴くヤツでなくて良かったなあ」ということだ。ああそうだよ、大目に見るのは簡単だよ、何をしでかしたとしたって、所詮ふわふわでぬくぬくしたこのぴいぴいどもがやらかすことなのだから。

(ヒトの脳内には多分に偏見が息づいています。陰気で湿っぽくてずるずる(以下略)タイプの生き物を偏愛している方が、よもやとは思いますがこんなところをお読みになったとしたら、それはそれで大変申し訳ないことを書いているという自覚はあります)

そんなこんなで少し平静を取り戻した後、「ではこのねじ(さじ/ギイ/メエ)の外見が、何かの間違いで陰気で湿っぽいずるずる生物のに変容をとげてしまったら、そして中身がねじ(さじ/ギイ/メエ)であることを信じずにはいられない証拠があるとしたら、どうするのだろう」とよけいなことを自問して、ヒトは頭を抱えることがある。長年一緒に暮らしていて、いまやヒトはふわふわでぬくぬくでぴいぴいだからという理由だけで、このそれぞれの名前のトリたちを愛しているのではないはずだからだ。ヒトもトリも、何を失ったら、どこまで変わってしまったら、もうそれそのものと見なすことができなくなるのだろう。

そんな答えの出ないことを考えていると、子供の頃から気に入らない「美女と野獣」という物語を思い出してきて、いつしかヒトはぷりぷりと腹を立て始める。野獣が王子になって美女は幸せめでたしめでたし、ってあまりにバカにしていないですか? 「昔王子だった野獣」であることによる屈折した心境を失った瞬間に、そののっぺり顔(に違いない)の悩みなき(←偏見)王子はもうベルの愛した相手とは別人ではないでしょうか? どうしても大団円に至らせたいなら、多少なりともそこいらへんのヒロインの葛藤を描くべきではなかったですか? えっ? ボーモン夫人よコクトーよ。ぷんぷんぷん(ヒトには、エレ・コンとかアニムスとかは理解不能だ)。かくしてヒトの頭の中の物語では、「美女と野獣」はいつもベルのかなしい絶叫で幕を閉じることになっている。「野獣を返せーっ!」

・・・そこいらへんで、ヒトはようやく我に返るのだ。何にこんなに怒っているんだっけ?

ねじ「キシャー」

2007年01月28日

ヒトねじさじに出会う1

ねじさじ

いまさらと言えば本当にいまさらなんだけれど、ヒトがどうして羽衣セキセイと暮らしだしたか、ということをここで振り返って書いておきたい(人様にはまったく参考にしてはいただけないような、行き当たりばったりな成り行きなのだけれどな)。つくづく不思議で不便そうな、それでもじっと見ているとそこはかとなく高級感があるようなないような、その気になればありがたーく見えなくもないかも、というその姿かたち。他人と違う何かを手に入れたい、そんなあなたのコレクター精神をうずうずうずさせてトリコにして離さぬのかも知れぬ、魔性(???)のぼさぼさセキセイ、ねじさじよ。君たちとヒトとのお話だ。

当時はセキセイ欠乏症を病んでからもう5年を過ぎようとした頃で、ヒトの病は文字通り膏肓を侵食していた。目に入るものから絶えずトリを、トリのかたちを漉しとろうとするいう餓えるような毎日。ではトリを飼えばよいではないか、と他人にならヒトもそんなアドバイスをするのは容易なのだけれど、そのころヒト自身はすっかり臆病になっていておんなじところをぐるぐるまわって前に進みにくい時期だったのだ。ぐるぐるまわりながら、順番は変だけれどトリの名前だけ先につけた。ねじとさじ。ヒナを2羽同時に手に入れる、というところまでは決めていた。オカメインコかも知れないなあ、などとも思っていた。

とは言え、無闇にペットショップを来訪しても、当然そんなに都合よくねじとさじには会えなかった。トリの種類をちゃんと決めて実績のあるブリーダーを探して相談するのが早道なのだろうと思ったけれど、そんな風に動くにはその頃のヒトには何かが足りなかった。ああ、ねじよさじよ。君らはどこにいるのだね。計画→実行、という着実な道から程遠く、ただ感傷的な思いにのみ突き動かされてヒトはトリを求めてさまようのだった。

(つづく)

■Youtube版ねじさじ
  「Hagoromo Brothers 1
   キッチンスケールに固執するねじさじと、ヒトんちのトリぼこり

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